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研究紹介

熱海市総合開発計画構想案(高山プラン)(1960)に基づく高度経済成長期の熱海市都市計画の展開

本研究は、これまで都市計画の不在と乱開発が指摘されてきた1960年代の熱海市を対象に、都市計画の展開を明らかにするものである。熱海市では、高山英華が手がけた総合開発計画構想案(通称「高山プラン」)が1960年代の都市計画の指針となった。計画はマスタープランとして位置付けられ、都市計画法を根拠とする内容と観光施設整備など法的根拠を持たない内容の両方を組み入れた総合的なもので、多くの事業や都市計画決定が実施された。住民による海岸景観保全運動や行政と住民との間で眺望地益権の保護契約締結など、海岸景観への意識も高かった。しかし、市街地については、美観地区や高度地区など高山プランで記されたものの、都市の建築が作り出す景観に対する規制は実現されなかった。

日本都市計画学会

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戦後旧都市計画法下における熱海市の風致地区を巡る議論と運用に関する研究

本研究は、戦後の旧都市計画法下における熱海市における風致地区をめぐる議論とその運用について明らかにするものである。戦前期、内務省主導で指定された風致地区は戦後期に入り、県と市が開発許可等の権限を持って運用された。1950年代以降、市街地周辺の風致地区はしばしば民間事業者による開発対象地となった。熱海市議会は当初は風致地区を守ろうとする意向があった。しかし、県行政の判断によって翻弄され民間施設が次々に風致地区内に建設されていった。こうした風致地区内での開発の結果、1960年代は市議会が積極的に風致地区の範囲変更や風致地区内の市有地売却と開発誘導に取り組んでいった。

戦前は国が観光客である国民の利益として熱海の風致景勝を評価しており、守るべき風致の価値が明確であった。対して、戦後は市街地周辺の風致地区は観光客を迎え入れるための重要な資源であるとの議論も少なからずあったものの、それ以上に観光産業の誘致や開発を重要視した。それは、県や市や市議会が観光客である国民の利益よりも地域の経済的な利益を優先したこと、言い換えれば県や市や市議会は観光客の利益を代弁しきれなかったと言える。

※日本都市計画学会年間優秀論文賞受賞

日本都市計画学会

[査読付き]

JSTAGE

戦前の林学者による都市計画への接近に関する考察

本研究は戦前の林学者による都市計画への接近を、本多静六・田村剛・上原敬二に注目して明らかにするものである。本多静六はドイツ留学で出会った森林美学と日比谷公園設計という経験を元に全国各地の風景地における計画策定に関わっていった。本多の計画論は自然を利用することに重点を置いていたことが知られるが、1920年以降の計画では都市計画や土地利用に対する言及が見られるようになった。その経験を踏まえて出版された理論書でも風景地において土地利用に関する都市計画の必要性が論じられた。田村剛は芸術品として公園・庭園を扱う造園と林学に関心を持っていた。しかし、1910年代の社会変化を読み取り、森林の保健的利用の必要性に着目し、派生的に温泉地や避暑地といった観光地に関心を抱くようになった。その計画論では、建物が集積する空間における都市計画の必要性がしばしば言及され、更に景勝地と都市とを結合する都市計画の必要性へと展開していった。上原敬二は国立公園における議論では都市計画による風景地の保存を主張したが、一般的な風景地や観光地に関しては本多や田村と同様に風景地における都市空間を創るための都市計画の必要性を主張していた。林学は農学と共に公園や庭園設計に関わる造園分野の専門であり、農学出身者の多くが地方都市計画技師として都市計画の実務に関わっていたのに対して林学出身者は都市計画への直接的な関与はなかった。しかし、本研究から明らかなように、林学者もまた都市計画に関心を抱いていたが、そのフィールドは都市ではなく風景地にあった。また、3人の林学者によって言及された都市計画は、土地利用規制に関して都市計画法に基づいた地域制よりも具体的なものだった。つまり、林学者の主張は、風景地でも都市計画は重要であるという考えに基づくものであったと同時に、そこで求められる都市計画は、都市計画法が意図する都市計画とは異なる種類のものだということである。歴史からこれまでの都市計画を見直してこれからの都市計画を検討しようとする今、戦前の林学者が風景地を対象に都市計画像を持っていたという歴史は無視されるべきではないだろう。都市計画に直接的に関わりを持たない専門家による都市計画の見方は、都市計画の概念を変え得る可能性を秘めており、それが都市計画の発展を支えるものとなろう。

日本都市計画学会

[査読付き]

JSTAGE

西山夘三による観光計画論に関する研究

本研究は西山夘三の観光計画論を明らかにするものである。具体的には、1) 西山の観光論を西山の意識の変化と共に詳細に捉えること、2) 計画者としての立場から見た西山の計画論を明らかにすること、3) 西山の関わった計画を通じて理論と計画の関係性を見ることである。戦前から西山夘三はレクリエーションの延長として観光に関心を寄せていたが、戦災復興期は、観光施設の建設による観光地整備を考えており、それは建築家としての一面を示すものであった。しかし、戦災復興期から高度経済成長期に移行し国民の消費を促す観光開発による自然破壊が目立つようになると、生活リズムを高めるための観光を主張し、国土スケールで観光資源の保存と開発を両立する計画論を提示するようになっていく。その理論を計画に適用させたのが京都計画や奈良計画等の構想計画であった。西山の、生活リズムを高めるものとして観光を捉える視点は、現代において1)地域が観光客から得る利益だけでなく、観光客が地域から得る利益を考える視点、2) レクリエーションと観光の総合的な空間計画の必要性、3) 適正な観光地創出に行政関与の必要性を提起する。

日本都市計画学会

[査読付き]

 

JSTAGE

昭和前期の雲仙における国際公園都市計画に関する研究

本研究は昭和前期に雲仙で都市計画家によって策定された国際公園計画に着目した。本研究は、次の点で特異的である。すなわち、造園家ではなく都市計画技師によって景勝地の計画が策定されたこと、日本最初の国立公園である雲仙で都市計画法及び市街地建築物法が適用されたこと、そして計画の実現が図られたことである。本研究では、計画の詳細や市街地建築物法及び都市計画法の効果、都市計画技師の谷口氏の役割について考察を行った。計画は道路や広場整備、ゾーニング、施設計画等を含む総合的な計画で当時の都市計画技術が応用されていた。また、1940年東京オリンピックや国立公園整備といった要因もあり、市街地建築物法及び都市計画法によって街路や広場、街並みの整備が実現した。都市計画技師の谷口は計画策定に留まらず法の適用や都市計画決定、都市計画実現に至るまで関わり、計画者及び計画推進者としての役割を果たした。

日本都市計画学会

[査読付き]

JSTAGE

戦争復興期に活動した観光技術家協会に関する研究

本研究は戦後間もない1946年8月に設立された観光技術家協会の活動内容などを明らかにすることを目的としている。これまでの研究では観光技術家協会は殆ど言及されず、存在が認識されていなかった。協会は50名ほどの建築家、造園家、工芸家から構成されており、観光施設を中心とする魅力的な観光地の創造を目的として結成されていた。主な活動は、観光施設の提案や計画業務の請負、展示会等の開催による観光に対する理解促進などであった。中心的な会員の観光に対する論理を見ると、建築家として村田は施設を中心とした自然との調和を意識していた。造園家としての西川(孝)は空間を統べる役割を果たそうとしていた。工芸家としての西川(武)は空間よりも土産品の開発などに重きを置いていたが、組織としての活動は観光施設の設計論の域を出ず、観光地の空間に関する計画技術は殆ど言及されなかった。各技術者が自身の職能の延長に観光を捉えており、観光地のためにどう職能を活かすかという観点に欠けていたと言える。そして協会の活動は設立からわずか7年ほどで停滞した。その理由としては組織運営上の財政的課題、観光に対する社会の理解不足であった。

日本都市計画学会

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JSTAGE

欧州評議会による「文化の道」政策に関する研究

本研究は欧州評議会の文化の道において、政策の変遷及び仕組みを明らかにすることを目的している。分析の結果、政策の変遷は6期に分類することができた。第1期:文化観光に関する議論(1960年代)、第2期:サンティアゴ巡礼道の再生に関する議論(1980年代前半)、第3期:東西欧の文化的なつながりの再生(1990年代前半)、ウィーン宣言の影響を受けた最初の規則制定(1990年代半ば)、各文化の道に地域における活動を求めるようになった規則の制定(1990年代後半から2000年代前半)、より厳しい規則による文化の道の質の維持(2000年代後半以降)である。文化の道では、欧州評議会、文化の道協会、ネットワーク組織が欧州文化アイデンティティの形成高揚を目的に活動を展開する仕組みがある。

日本都市計画学会

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JSTAGE

文化庁「歴史の道」事業による地域への影響に関する研究

This research focuses on the “historical routes policy” by the Cultural Affairs Agency in Japan. This paper aims to clarify 1) its philosophy, 2) the policy's influences on local areas and 3) this policy's difficulties.


 The results are as follows;
 1) The policy aims both conservation of the routes in the regional scale and walkable environment.
 2) Not only the historical routes but also the heritage along the routes were listed and conserved.
 3) Changes of the framework and the character of the historical routes made this policy difficult to succeed.

日本建築学会

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JSTAGE

1933年都市計画法改正による観光町村への法定都市計画の敷衍の特異性

This paper focuses on the revision of the City Planning Law in 1933, which extended the law's application to small towns, focusing primarily on towns with hot springs (Onsen), beaches, historical sites and sightseeing places. In the 1920s, scenic areas started to be developed, but the disorganized and uneven nature of this development caused some problems. In the face of this, city planners realized the importance of planning in scenic areas. Research by the Toshi-Kenkyukai (都市研究会) in 1930 clarified that many city planners could utilize city planning in scenic towns to protect the environments from damage by the private companies, to conserve the scenery, to improve the space for tourists, and to combine existing industry with new markets for tourism. At that point in time, the City Planning Law did not apply to small towns. In 1933, the law was revised and small towns with hot springs (Onsen), beaches, historical sites and sightseeing places were included. Kazumi Iinuma, the chief officer of the city planning department, aimed for conserving the natural scenery of these towns, in addition to developing the district close to the natural scenery properly. Through the application of the City Planning Law, the layouts of small towns were decided not only by the town's will but also the prefectures. 576 towns in total applied the revised City Planning Law by the end of the WW2. 224 of them had planned streets, scenic districts or parks. In this paper, 56 towns are identified as scenic towns in light of official statements made and reasons given for the plan. These scenic towns, compared with the others, made a greater number of planning decisions regarding scenic districts and parks.

日本建築学会

[査読付き]

JSTAGE

戦前の別府市における都市計画に関する研究

This research focuses on the city planning of Beppu city before WW2. Beppu is one of the famous tourist destinations in Japan since late modern period. Its start of city planning was a road development project started in 1906. It lasted for about 20years and the road of the Beppu city changed to grid patterns. After city status were given to Beppu in 1924, the discussion about the city planning of Beppu city started. Because Beppu had unique characteristics as a tourist destination, city planning engineers from the Japanese government had much interest in and expectation to the planning. On the other hand, engineers from Oita prefecture and Beppu city, who were in charge of the planning, struggled with the methodology to plan. The city planning law was applied to Beppu city in 1927 and just after that Mr. Hiroyuki Kayanoki, an engineer from the Home Ministry, visited Beppu city and decided the vision of Beppu city as “the city with a scenic view and hot spring”. Along the lines of the vision, engineers from Oita prefecture and Beppu city cooperated and worked together on the planning of streets in 1932 and land use in 1935. Characteristics as a tourist destination were reflected in the planning of them. As for the streets, the railway track and the street was planned as grade intersections to avoid the atmosphere of the tourist destination. As for the land use, the ratio of the industrial areas was only 3% of the city planning area. However, the planning regarding streets and the use of land only covered the city central area and most of the suburbs had no city planning. This situation encouraged Beppu city to make plans on its own in 1937, which was called as “Sento Toshi Keikaku (Hot spring capital city planning)”. Beppu city created the plan with the help of Dr. Tokutaro Kitamura, who was an engineer from the Home Ministry, and Prof. Eitaro Sekiguchi, who was a specialist of landscape architecture. It included the planning of streets, parks and tourist facilities. Also Dr. Tokutaro Kitamura was in charge of the planning of scenic districts. The scenic districts surrounded the city area. Not only natural areas but also tourist attractions and recreation areas for residents were also included in the scenic districts. Even after the Sino-Japanese war was started in July 1937, Beppu city continued making efforts to realize the plan. One large park was created following the Sento Toshi Keikaku with the help of a private company in 1942. Three large land readjustment plans were designed to control over lands, which were owned by owners outside Beppu city. In the previous research, it was mentioned that the city planning technique for the tourist destination before WW2 was the “park system”, which connects parks by roads. However, in Beppu, one of the famous tourist destinations in Japan, how to control land and space were one of the issues to be solved by city planning techniques.

日本建築学会

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JSTAGE

Urban planning for the Yamashiro hot spring by Eika Takayama

Though the necessity of urban planning for tourist destinations in Japan has been acknowledged by some of the professors, little progress has been made so far. In order to contemplate the urban planning of tourist destinations for the future, it is necessary to review the history of planning for tourist destinations. It is also important to clarify how urban planners in Japan previously engaged with tourist destinations. Therefore, this research focuses on Eika Takayama, one of the greatest urban planners of Japan. It explores his works on tourist destinations. He was engaged with the Japan Spa Association and did three types of activities: 1) participation in the discussions held in hot spring areas; 2) a tour to hot spring resorts in Europe with members of the committee and; 3) the actual urban planning of hot spring areas. This paper mentions his relationship with the plans for the Yamashiro hot spring town. With strong demand for the development of tourism during the 1950s, he proposed to create a new town for development while conserving the historical and unique centre of Yamashiro. His idea contributes to the uniqueness of Yamashiro today.

IPHS

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域内調達率向上に向けた調査に関する試論

日本観光研究学会

[査読なし]

本研究は、観光による経済波及効果を高めるために必要な域内調達率の向上に資する政策を考えるための調査手法を検討し、A市における実践を報告するものである。結果、事業者の属性(規模や種類、立地)や食材の品種によって域内調達率は大きく異なり、それを増加するための課題や方策は異なることが示唆された。本調査から、個々の施設レベルや品種レベルできめ細かく域内調達率を上げていく政策を展開する必要性が認識される。ここから導出されるのは、市全体における域内調達率増加を目指すよりも、域内調達率の高い施設をいかに増やすか、という指標の重要性である。

1969年観光政策審議会専門委員会による「観光」の定義創出プロセス

日本観光研究学会

[査読なし]

本研究は、1969年に観光政策審議会が政府に答申した「国民生活における観光の本質とその将来像」における、観光の定義の生成過程について、それに関わった専門委員会の会議録を基に明らかにするものである。議論となったのは、観光を(当時の)現実に現象として生じている事実から考えるか、現実にとらわれずにあるべき姿から考えるべきかであったが、議論の結果、観光を行う人間としての本質にまで立ち返った上で、あるべき姿としての観光が定義付けられ、政府答申として発表されたのであった。

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